何年か前にあったことなんだけど。
俺が前に住んでた地域って、ごみ収集が深夜に行われるんだよ。
うちのマンションは、プレハブ小屋みたいなところがゴミを置き場で、俺はいつもは朝の出勤前にゴミ出しに行ってたんだ。
でもその日は色々忙しくて、ゴミを出すのが深夜になっちまった。
家の玄関を出たらゴソゴソ音が聞こえて、ああ、もうごみ収集の人が来ちゃったのかって思った。
それで急いでマンションの下に降りたら、案の定ごみ置き場にはもう人がいて、俺はその人に声かけたんだよ。
すいません、ゴミをもう一個持っていってもらえますかって。
でも返事がなかったから聞こえなかったのかと思って、今度はしっかり近寄って、その男の真後ろですみませんって声をかけた。
でも、また返事がない。
俺はこの時点で、なんだこいつ、耳遠すぎだろってちょっといらいらしてた。
だから、耳元でもう一回声かけようと顔を寄せたんだ。
今でもはっきり思い出せるんだけど、そいつは紺色っぽい上着羽織った中肉中背っぽい男で、しゃがみ込んでゴミ置き場に頭突っ込んで、街頭に照らされながらガサゴソやってた。
俺は、そいつの上から覗き込むように声かけようと思ったってわけ。
で、いざ近づいてみたら、そいつは一心不乱に、ゴミを袋の中から取り出してはじっと見つめて自分の前に並べるのを繰り返してる。
しかもそれだけじゃなくて、延々と
もったいないねえ、もったいないねえ
って呟いてた。
めちゃめちゃ気味悪かったけど、その時は障害者とかその類なんだろうと思った。
当然関わり合いになりたくないから、俺は立ち去ろうと思ったんだけど、びびったのはその時。
全く足が動かなかった。
ぴくりとも動かなかった。
どうにかこうにか動こうと焦ってたら、その男が急に立ち上がってこっちに向き直った。
目が合った時、やべえって思った。
なんていうか、見てるだけでクラクラして生気を吸い込まれそうな目だった。
黒目のところに眼球があるんじゃなくて、ぽっかり穴が空いてるような感じ。
でも、合った目はすぐ逸らされて、そいつは道の向こうに去っていった。
ちょうど、大通りに行くのとは反対の山の方に消えていった。
そいつが見えなくなって、急に足が動くようになって、俺は転がるように家に逃げ帰った。
それで、俺が本当にやばい目に遭ったのはその後。
初めは、剥いた玉ねぎの皮を捨てるのが無性にもったいないと感じたことだった。
台所の三角コーナーに捨てて、他の生ゴミと混ざってぐちゃぐちゃになったそれをわし掴んで、口に入れたくてしょうがなかった。
なんでそんなふうに思うのか意味がわからなくて、袋の口を閉じてでかいゴミ箱に放り込んだ時はモヤモヤしたけど、その時はまだ我慢できてた。
でも次第に、生ゴミを捨てるのも我慢できなくなって、とうとう全部食べるようになった。
野菜を洗うのも許せなくて、泥がついたまま丸齧りするようになった。
食用のものがついてるものは全部食べなきゃ気が済まなくて、油が染み込んだフライドポテトの袋まで口に入れてた。
その時の俺には、やばいことしてる自覚は確かにあった。
ただ、人間として、生き物としてこうしなければならない、みたいな感情に支配されてて、抗えなかった。
それこそ、もったいなくてもったいなくて、早く自分のものにしないと、誰かに奪われてしまうっていう危機感に支配されてた。
後から同僚に聞いてみれば、当時の俺は自分の食事の時以外にも、外で物を食べてる人がいるたびに射殺しそうな目で見てたらしい。
同僚たちからは、疲れてるんじゃないか、しばらく仕事を休んだらどうだと言われるようになったけど、俺は頑なに聞き入れなかった。
でも、その後、今度は記憶が曖昧になる日が増えた。
はっと気づいたら、さっきまで朝だったはずなのにもう夕方になってる。
当たり前だけど、そんな状態でまともに出勤しているはずもなく、無断欠勤がつづいた。
ただ、俺の様子がおかしいことに気づいていた同僚が上司に掛け合ってくれたらしく、クビにはならずに休職することになった。
で、実はその後のことはほとんど覚えてない。
親から聞いたことをもとに話せば、俺の様子があまりにもおかしかったんで、知り合いから親に連絡が入って実家に連れて帰られたらしい。
実家でゆっくり過ごせば回復するかと思ってたけど、だんだん目の焦点も合わなくなって、それと同時に夜になると外を徘徊するようになったんだと。
目を反した隙に、すぐ家から出てどこかへ行こうとするので、大変だったそうだ。
信心深い両親や近所の人たちが寺に駆け込んだりしたそうだけど、俺は回復しなかった。
記憶が曖昧な中でもなんとなく覚えていることがあって、そういう時は大体、俺は暗い路地を歩いてる。
すると、何か目当てのもとを見つけて、それに向かって吸い寄せられるように進むところで、またぷつりと何もわからなくなる。
ただ、一つだけ途切れずにつづいている記憶がある。
俺は例によって暗い路地を歩いてて、目当てのものを見つけて、そこに引き寄せられていく。
たどり着いたところは銀色の扉の前で、俺はその取手を掴んで開く。
そしてしゃがみ込んで、目の前のものに手を伸ばした。
その瞬間、肩をトントンと叩かれて、大丈夫ですか、と声をかけられた。
振り向けば、サラリーマンっぽい男の人と目が合った。
一瞬にして意識がクリアになった感覚があって、そこで俺の視界はまた暗くなった。
それで、次に気づいた時には実家の布団の上。
実家から少し離れた住宅街の路地に1人で倒れてたんだと。
両親は、急にまともになった俺を見てそれはそれは驚いてた。
その後は、特に異常もなく、無事に日常生活を過ごせてる。
俺が回復した理由は結局分からずじまいで、あの、最後に会ったサラリーマンが本当にいたのかどうかすらも分からない。
ただ、もしあの人が実在しているのだとするなら、俺のせいで苦しんでいないといいなと心から思ってる。
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