北海道で猟師をしている人の話。
ある山にビバークしてクマを追っていた日のこと。
突然、傍らで寝ていた相棒の猟犬が立ち上がり唸りだした
「どうした?」
と声をかけても、普段ヒグマにさえ怯えない相棒の猟犬が全身の毛を逆立て、テントの一点を見つめて唸っている。
これはもしやヒグマの夜襲かと思い、ライフルを構えながらテントを開けると、猟犬はものすごい勢いで飛び出していった。
見ると、猟犬はキャンプ地としたスペースの山側の角に向かって駆けて行き、何もない虚空に向かってしきりに唸っている。
そしてしばらく吠えつくと、途端にしっぽを丸めて怯えるような声を出して後退し、また駆けていっては虚空に吠えるということを繰り返した。
最初こそヒグマの襲撃かと思っていたその猟師は慄然とした。
普段ヒグマにすら物怖じしない愛犬が、怯えているということが彼の自信を砕いた。
そのとき、彼はかねがね聞いていた『山の魔物』という言葉を思い出した。
人には決して見えないが、知らずのうちに近寄ってきて、気が付かないうちに人や猟犬の命を奪い去っていく魔物が山には時たま現れるのだと、先輩猟師から、友人知人から聞いていたのだ。
それらは影も形も見えないが、山中で出会うと即座に凶兆をもたらすというので、今までも警戒していたのだという。
すぐさま彼は猟犬の首縄を掴んでテントに引き戻し、今しがた猟犬が睨んで吠えていた一点に銃口を向けながら、『来ないでくれ』と念じつつ一夜を明かしたという。
愛犬はその間も唸り吼えたが、明け方には落ち着いたという。
翌日、世が白み始めてから愛犬が吼えた地点に登ってみたが、生物の痕跡はおろか何の変化も認められなかったという。
しかし後日、その話を先輩猟師にすると、
「おお、あれに出会ったか」
と妙に嬉しそうな声で言われたという。
今やマタギといえど、彼が出会った不可解な御霊に会えるものは少ないという。
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