男が女の子の正面に立って、何かしきりに手を動かしてた。
手話だ。
彼はやっと手話を覚えたこと、覚えるのは結構大変だったこと、女の子を驚かせようとしてその日まで秘密にしてたことを伝え、女の子の方は彼が勉強してることを知らなかったこと、本当に驚いたこと、嬉しいと思っていることを伝えて、そのうちもどかしくなったのか彼の手を握って2度3度、嬉しそうにその場でほんの少し飛び跳ねてみたりしてた。
悪趣味な盗み聞きだとは解ってたけど、その時ようやく手話を使いこなせる様になったばかりの俺には、それは例えば外国の街で突然耳に入ってきた日本語が気になる様に、申し訳ないけどどうしても気になる光景だった。
たぶん、俺はにやけてたと思う。
怪しい奴に見えたかもしれない。
でも、それは微笑ましくて、こっちまで心があったかくなる光景だった。
服の裾が引っ張られる感覚に振り返ると、そこに俺の彼女が来ていた。
何を見てたのかとか、顔が嬉しそうだとか、もっとはやく私に気づけとか、微妙に頬を膨らませて、もの凄い勢いで手話を繰り出す彼女に、俺は手話でごめんなさいと伝え、ちょっと昔を思い出してたことを伝えた。
それでも彼女は少し首を傾げ、その”昔”を知りたそうな表情だったけど、俺は笑ってごまかした。
今目の前にいる女の子を驚かそうと、秘密で手話を勉強してた頃の事だ……とは、恥ずかしくて言えなかった
地獄では誰でも普通に話せるようになりますから手話の方々も安心してお出でください。
心にバリアがない。これがほんとうの バリアフリーだよね。