あれはまだ、私がその小さな会社に入ったばかりの頃のできごとでした。
従業員は全部で10人ぐらいの家族的な雰囲気の、なかなか良い会社でした。
ある日、慰安旅行で温泉にいきました。平日にわざわざ会社を休業してやって来たかいがあって、我々の他には数人しか泊まり客はいないので、まるで貸し切りのようす。
おきまりの宴会も終わり、旅館のバーで先輩たちと飲んでいましたが、当時若かった私は、飲みすぎたためか眠くなってしまい。
「すみません、僕は先にやすませてもらいます。」
そう言って席を立ちました
「まだ、早いよもう少し付き合えよ。」
「もっと飲んでいけよ。」
そんな声を無視して部屋に戻りました。
ふとんは敷いてありましたが、だれもいません。しかし睡魔には勝てず眠ってしまいました。
しばらくして目を覚ますと、夜中の二時ごろでした。何人か寝ていましたが、まだ、出かけている人もいるらしく、空きふとんもいくつかありました。
また寝ようとしましたが、目が冴えて眠れません。どうするか、そうだ、風呂に行こうと思いました。
タオルを手にして旅館の明るい廊下を歩いていきました。旅館の人に会ったので尋ねました。
「まだ、お風呂開いていますよね。」
「はい、24時間あいています。」
再び廊下を進み、風呂場に着きました。
脱衣所で浴衣を脱いでタオルを持って湯船の方のとびらを開けました。
誰もいない事を期待していましたが、手前に並んでいるシャワーと蛇口のある場所に、太ったおじさんが髭を剃っていました。
かるく会釈をしてすこし離れた、入り口のすぐ側のところで身体を洗ってから、風呂に入りました。
他には誰もいないので、のびのびとつかっていました。シャンプーもしようと湯船からあがりました。
シャワーのところまで行き、椅子に腰掛けた時、なにげなく、おじさんを見るとまだ髭を剃っている。
ずいぶん丁寧だな。
そう思い、視線をおじさんの目の前の鏡に移すと、その中に妙なものが見えました。
湯船の端に黒いものがある。うしろを振り向くと湯船には何もありません。
また、鏡を見ると、湯船から両手が這うように出ている、黒いのは頭のようです。
顔は見えません、あわてて湯船を見ても誰もいません。鏡をのぞくと、右手を前に出し身体をズズズとひきずる。
次に左手を前してまたズズズと身体をひきずり、少しずつおじさんに近づいていきます。湯船を見ても、何もありません。
そのうえ鏡の中のそれは右手に何かを握っています。
カミソリです、丁度床屋さんで使うような。
それを手に握り、ズル、ズルとおじさんににじり寄ります。
しかし、おじさんには、見えてないのか、平気で髭を剃り続けています。湯船を見ても誰もいません。
無我夢中で立ち上がり、脱衣所に戻りとびらを思いっきり閉めました。
間もなく、おじさんの悲鳴が聞こえるはずだ。いそいで逃げろ、心の声が叫ぶ。
あったまっているはずの身体には鳥肌がたっています。
しかし、何の音もしない、早く逃げなくては、あぶないぞ、大変だぞ、しかし、静寂。
何故か、とびらを開けてみたい、そんな誘惑がしました。走って逃げろ、心の声がします。
手がとびらにかかっています。そして、手にちからが入り、ガラリと音をたてて開けました。
誰もいません、おじさんも、得体の知れない、あの物体も。
今度こそ、浴衣を必死にはおって、自分の部屋に戻りました。
その後、その会社は辞めて現在はちがう仕事をしています。
結婚し、妻から、
「温泉に行きましょう。」
と言われても、その時はいいよと言っても、何だかんだ、理由をつけ絶対にどこの温泉にも行きません。
この話も今まで誰にも話した事はありません。
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