一年前のことです。
当時、ぼくは現役で合格した夜間の大学に通っていたのですが、その頃のぼくは、大半のだめ人間がそうであるように新しい環境に馴染めず、毎日が暗い日々の連続で、しばらくして「こんな学校を卒業しても意味がない」という甘ったれた考えを持つようになって、ちょくちょく学校をさぼっていました。
その結果、進行した講義にまったく付いていけなくなり、ほぼ登校拒否になってしまったのですが、甘ったれなものでそのことを親に言えず、仕方なく学校に行くふりをして、毎日ふらふらとファーストフード店に入り浸って、途方もない時間をつぶしていたのです。
その日も、そんな一日になるはずでした。
夕方の六時過ぎ、いつものように明るく家を出たぼくは、自転車を適当に漕いで銀座へ向かいました。
そして、今はもうなくなってしまった晴海通り沿いのケンタッキーの前に自転車を停めて、ホットティーを注文し、店員に聞かれる前に「ミルク」と言うと、トレイを持って二階にあがったのです。
二階は、通路をはさんで四人掛けのテーブルを二つ置いただけでいっぱいになるような幅の細長いフロアで、階段を昇って左側がトイレと喫煙席。
そして右側が窓と禁煙席でした。
ぼくはタバコがだめなので、いつも禁煙席にトレイを置きます。
こちらの席は、何故か二人掛けのテーブルが多い印象があり、実際、ぼくのように一人で座っている人もちらほらと見かけます。
あのころは、これを見るたびに「タバコが吸えたら、ぼくも友達ができたんじゃないか」と考えて、暗くなっていました。
その日も、そんなような事を考えながら、本を読んでいたのです。
三十分くらいそうしていたでしょうか。
人の動きが視界に入ったので見ると、一人の女性がトレイを運び、丁度ぼくの真向いのテーブルに座るところでした。
その女性は四十代くらいで、胸まである長い髪をとかさないでボサボサにしていたのを覚えています。
そこまで見ていてなんですが、特に興味もなかったので、ぼくは本の続きを読むことにしました。
一人の客なんて他にもいるし、なによりぼくもその一人だからです。
ところが、しばらくして不思議なことが起こりました。
一人のはずのその女性の席から、話し声が聞こえてきたのです。
「電話?マナー悪いな」
そう思ったぼくが何気なく彼女の方を見ると、電話などどこにもなく、彼女はただ、うつろな目をして、誰もいない空間に向けて言葉を発していたのです。
‥‥あのさ‥‥ねってやっぱ‥‥
‥‥でもきの‥‥つい‥‥やめ‥
喋り続ける彼女を前に、ぼくは席を立とうと思いました。
実際、彼女の影響でまわりの客はみんな帰ってしまい、禁煙席には彼女とぼく以外誰もいなかったのですから。
しかし、時計を見ると帰るにはまだ早く、最低でもあと30分はここにいなければ親に疑いをもたれてしまいます。
仕方なく、ぼくは本の続きに目を走らせましたが、内容は全く頭に入ってきませんでした。
それから10分ほど経ったでしょうか。
彼女は相変わらず喋り続け、ぼくの方も少しずつ馴れてきた頃、ぼくの胸の中で先程までの恐怖心が薄れ、かわりに好奇心が鎌をもたげていました。
一体、何を話しているのだろう?
彼女の声はとても小さく、内容までは全く聞き取れなかったのです。
さっそくぼくは、念のため目を本から離さず、耳だけに全ての神経を集中させました。
‥‥わよ‥‥ないわよ‥‥
それでも彼女の声は聞き取れず、ぼくはさらに耳を澄ませることにしました。
‥ゃないわよ‥‥じゃないわよ‥‥
どうも、さっきから同じフレーズを繰り返しているみたいなのです。
‥‥んじゃないわよ‥‥でんじゃないわよ‥‥
──彼女の言葉がハッキリと聞こえたとき、ぼくは耳を澄ませたことを後悔しました。
彼女は、ずっとこっちを見つめながら、こう言っていたのです。
本なんか読んでんじゃないわよ
実話です。
メンヘラ キモ女