前項でもお話した通り、この話は大変危険です。
充分な心の準備をしてから御読み下さいます様、御願い致します。
高校一年の冬の事です。
その日の朝はこころなし体調が優れず、鬱とした気分でした。
いつもの様に日課の雨戸開けをし、朝食をとり、学校へと向かう準備。
しかし何かおかしい・・・・・。
背後に視線を感じるのです。
何度も振り向きましたが、そこに人の気配は無く、いつもと同じ我が家の日常が存在するだけでした。
不安な気持のまま、自転車に乗り、私は家を出ました。
私の家から出て最初の通りに差し掛かったところで、遠くから腰の曲がった老婆が歩いてくるのが見えました。
しかし、歩いていると言うにはあまりに不自然な動きである事に気付いたのです。
足を動かしておらず、わずかながら体が宙に浮いているような感じでした。
起き抜けから不気味な感覚にとらわれていた私は、恐る恐るその老婆の方向へと自転車をこぎました。
近付くにつれ、老婆が発する禍禍しい霊気に体中が蝕まれるような感覚を覚えました。
明らかに霊体である事を認識した私は、自転車をこぐのをやめ、老婆に向かい合うような形となりました。
その距離およそ10m。
鼠色の乱れた髪の毛に隠れて見えなかった顔がゆっくりとこちらを向きました。
顔を見た瞬間の感覚はいまだに思い出すだけで背筋に緊張が走ります。
浅黒い肌。
痩せこけた頬に、落ちそうなくらいに張り出した瞳。
口を真一文字につぐみ、私を睨みつけてきます。
その瞳には凄まじい怒気を感じました。
私は老婆の眼光に体がすくみ動けなくなっていたのです。
それまでにも私は相当な数の霊体験をしており、霊をあまり『怖い』と感じなくなっていたのですが、その時ばかりは自分の霊能体質を呪いました。
悲哀、怒り、憎しみ。
そんなものが入り混じった老婆の霊気。
それまでの私が体験した事のない、凄まじい怨霊です。
老婆に動きが見えました。
両腕を前に伸ばし、首を締めるような格好をしています。
「危険だ。」
そう思った時は遅かったのです。
真っ直ぐに私目掛けて老婆が向かってきます。
その速さたるや、成年男子が猛スピードで走るくらいの勢いで、私はかわす事もできずに棒立ちでした。
そして私の体を老婆が通り抜けて行ったのです。
しばらくは息もできず、その場に立ちすくんでいましたが、恐る恐る後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいませんでした。
その日、一日。
私はとても嫌な気持で過ごしたのは言うまでもありません。
しかしそんな現象はあくまで前触れに過ぎなかったのです・・・・・。
老婆を目撃した日から一週間が過ぎました。
この一週間というもの、ろくに食事も喉を通らず、気分の優れない毎日を送っていました。
学校では学期末試験が始まっており、私も柄にも無く試験勉強をしなければならなかった為、両親が寝静まった頃を見計らい、応接間にやってきました。
一応、何故わざわざ応接間で勉強しなければならないのかを御説明致します。
元来、勉強嫌いの私は机に向かう事が大嫌いで、自室の勉強机にはコンポを乗せていた為、そこでは勉強が出来ない状態だったのです。
深夜一時頃。
静寂に満ちた部屋にこんな音が聞こえてきたのです。
『ピチャ・・・ピチャ・・・ピチャ・・・』
それは雨漏りの様な水滴の音でした。
音の方向は応接間の隣に位置するトイレからです。
管が破れて水漏れでもしているのだろうか?
軽い気持でトイレに向かい扉を開くとそこには・・・・・。
私の眼前に薄汚い布キレ。
見上げるとあの老婆の顔が!!
天井から吊るさがった老婆は白目を剥き、口からはどす黒い血を流していました。
音は老婆の口から垂れた血の音だったのです。
私は絶叫しました。
腰が抜けたのでしょう。
その場にヘナヘナと座り込んでしまいました。
二階からは私の声に驚いた両親がおりてきました。
私は這いずりながら両親の元へ。
「どうしたんだ?」
父親の声に私は返事が出来ず振り返りトイレを指差しました。
しかしそこには既に老婆の姿は無く、トイレの扉だけが開いた状態。
私は必死に両親に説明しましたが「寝不足で夢でも見たんだろう。」と、軽くあしらわれてしまいました。
応接間に戻り、とりあえず机に向かいました。
しかしどうにも落ち着きません。
そしてこの後、はかどる事の無い勉強をしていた私に第二の恐怖が襲いかかります。
私は背後に人の気配を感じました。
しかし先程の事もあるので後ろを向く気にはなりませんでした。
その時です。
私の首筋に冷たい感触が・・・・・。
前にあった戸棚のガラスにうつっているのは、私の首を締めている手。
そう。
私の背後にはまたもやあの老婆がいたのです。
老婆の手を引き剥がそうとしましたが、凄まじい力でまったくはなれません。
私は目を閉じ、無宗教くせに神頼みです。
御経を唱えました。
『南妙法蓮華経南妙法蓮華経南妙法蓮華経・・・・・・・』
すると老婆の力は緩み、かわりに私の耳元でこう囁きました。
『熱い・・・熱くてかなわん。なんとかせんか!誰の謀(はかりごと)じゃ!
許しはしまいぞ!井上の末代まで祟ってやるからそう覚悟せよ!』
二度ほど同じ言葉を繰り返し、フッと老婆の気配は消えました。
そんな状況で勉強など手につくはずもなく、私は眠る事にしました。
眠りながら考える。
「私はおかしくなってしまったんだろうか?」
真剣に悩みました。
気が狂っているのかもしれないと・・・・・。
そして老婆の言葉。
どんな意味が込められているのでしょう。
老婆の霊に悩まされる日々はまだ続いたのでした・・・・・。
私のノイローゼ気味の日々は続いていました。
以前にも増して、誰かに見られている感覚が強くなってきたのです。
一日一回は老婆が私の耳元で言ったあの言葉が聞こえてくる始末。
そしてついに老婆の姿が常に見えてしまう。
そんな状況まで追い込まれていったのでした。
食事もろくに喉を通らず、眠れない生活。
私は次第にやつれていき、あの老婆の様に頬が痩せこけたみすぼらしい顔になってしまいました。
見かねた両親が私にこう言いました。
「最近のおまえはおかしい。でも我が子を精神病などと思いたくはない。
おまえが言う事を信じているわけではないが、一度、霊媒師にみてもらったほうが良いと思う。」
そして私は母の弟の紹介で霊媒師の元へ行く事となったのです。
紹介してくれた叔父の車で霊媒師のもとへ向かいました。
着いた先はなんの変哲もない住宅街。
そしてただの一軒家でした。
出迎えた女性に案内され、家の中へ。
一室に通され、その場に座っていた女性こそ、誰あろう霊媒師の方だったのです。
年の頃は70代前半といったところでしょうか。
ふくよかな顔が優しい印象を覚えさせる老女でした。
「こちらにおかけなさい。」
そう言うと彼女は私を自分の前に座らせました。
彼女は私の手を握り、こう言いました。
「あなたが来たのはすぐにわかりましたよ。あなたはすごい霊能力を持っていらっしゃる。
でもね。あなたは霊媒師になりたいわけじゃないんだものねぇ?だったら必要ないのにねぇ。可哀想にねぇ。」
矢継ぎ早に話していく老女。
そしておもむろにこう言ったのです。
「あなたには今、非常に厄介な霊が憑依している。気味の悪いお婆さんだねぇ。」
驚いた。
ただただ驚いた。
私はここに来てからまだ何も言ってないのです。
しかし老女の言っている事は寸分の狂いなく当たっているのです。
「あんたなんでこんな悪さをするのさ。この子に何の関係があるんだい?」
優しい口調で話していますが、私に話しているのではなさそうです。
私は黙って老女の言葉に耳を傾けました。
「そうかいそうかい。それは大変だったねぇ。だけどこの子には関係ないだろ。早いとこ成仏しなさい。」
そう言った後、老女は私の肩に両の手を置き、なにやらお経のようなものを唱え始めました。
何度も何度も私の肩を強く叩き、老女は拝み続けます。
一時間ほど彼女と霊の攻防があったのでしょう。
深く溜息をついた老女はにっこり笑って私にこう言いました。
「もう大丈夫だよ。あなたに憑いてた霊はいなくなったからね。」
彼女にそう言われるまでもなく私の体がそれを理解していました。
憑き物が落ちるとはまさにこの事。
体が軽く感じ、食欲までもが出てきたのです。
老女はこう続けました。
「あなたについていた霊は40年以上前にあなたの家の周りに住んでいた地主さんだよ。
あなたの家の周りは昔、一つの土地で、彼女はそこの女地主。ある時、資産目当てで彼女は親族に殺される羽目になったんだ。
死因は焼死さ。彼女の自宅に火をつけたんだろうねぇ。彼女は相当怒っていたよ。
『井上だけは許せない』と言っていたねぇ。井上ってのは親族の方のようだね。」
言葉が出なかった。
唖然とした。
私は老女に聞きました。
「なぜ僕に憑依したのでしょうか?」と。
彼女の答えは単純明快でした。
「それはあなたが霊に優しい人だからさ。霊ってのは霊媒師のように霊の気持がわかる人間に憑こうとするのさ。
だから何の関係もないあなたに憑依して、恨みを晴らそうとしてたんじゃないのかねぇ。」
その後、老女に霊の祓い方を教わり、私は帰路につきました。
次の日、私は母と近所の事について町内を聞いて回りました。
そこで驚くべき事実に直面したのです。
そう。
老女の言葉には寸分の間違いもなかったのです。
私の住んでいる場所は元々は一つの土地で、そこの所有者は『井上』姓。
それ以前の所有者の事まではわかりませんでしたが、『井上』が謀略により老女から土地を奪ったのでしょう。
それ以来、老婆の怨霊は私の前に姿を見せません。
が、(序章)にてお話した通り。
見てしまうんですよ。
この話しを聞いた人が・・・・・。
霊媒師の方が最後に言った言葉を付け加えておきます。
「成仏させる事はできなかった。」と。
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