仕事中にこんなこと書いてたら親父に叱られると思うけど。
4年前の6月のこと。
東京で働いていた俺は親父が仕事中に怪我をしたため実家に帰った。
木の破片が右目の少し下に突き刺さったらしい。
あと2センチ上にずれていれば命はなかったと医者に言われたそうだ。
そして家業(材木屋)の手伝いを始めた。
毎日何度も叱られた。
小さいときから叱られてばかりだった。親父といてあまり楽しい覚えはない。
クリスマスに買ってもらった大きな戦艦大和のプラモデルを完成したといって見せたら、
「せっかく買ってやったのに、なんでちゃんと作らないんだ」
と言われて、床に叩き付けられたり。
それが怪我の後遺症で右目は視力はあるものの動かなくなり、
まるで手負いの猛獣のようだった。大きくなっても叱られてばかり。
「帰ってこなければ良かった」
毎日そう思ってた。
ある時母親と二人きりになった。
母「怒られてばかりで大変ねえ」
俺「帰ってこなければ良かった」
母「けどお父さん、怪我で入院してるときに東京から見舞いに来てくれたとき、○○がわざわざ来てくれた。って泣いてたよ。今もたまに帰ってきてくれて助かる。って言ってるし」
俺にとって最強の親父が泣いたという。
なんか胸がつぶれそうな感じだった。涙出そうだった。
嬉しいのか、寂しいのか、わけがわからなかった。
怒らせてばかりでも少しは親孝行できてるのかな、と思い嬉しかった。
なんか中学生のときに腕相撲して勝ったときよりも寂しかった。
次の年の2月に俺の子どもが生まれた。
嫁さんの実家が800キロも離れているので一人で行くつもりだった。
嬉しかったが、これからのことを考えると少し複雑な気持ちだった。
配達から帰るとそれまで絶対行かないといっていた親父も行くという。
1月に親父は夢だったパジェロエボリューションを中古で買った。
どうやらこの日のために1月納車にしたらしかった。運転中、
「やっぱりぜんぜん違う」
それまで乗っていた10年落ちのパジェロディーゼルとの違いにご満悦だった。
なんかいろいろ褒めちぎっていて、子どもみたいだった。
初孫との対面。
「お前によく似てる」
目を怪我して以来ずっとサングラスをしている親父が
しばらく一人でガラスの向こうの俺の子どもを見ていた。
どんな目で見ていたかはわからないが、かなり嬉しかったのだと思う。
口元がにやけていた。
名前は、俺が決めた。漢字をしぼりきれずにいたので、親父にたずねた。
俺の名前は親父から一文字もらっていたが、子どもには親父からもらった漢字を使わなかった。
「こっちのほうが強そうでいいな」
二人の意見が一致して2つの候補から漢字を決めた。
それからひとしきり姓名判断のことについて話をした。
俺も苦労したが、親父も俺のときに苦労したこと。
どういった思いで名付けたかということ。
俺は親父の思いにこたえることができているのだろうか。
名前負けしないようにがんばろうと思った。
まだまだ勝ってない。
そのあと生まれたての子どもを見て、急に実感がわき、泣いた。
子どもが生まれて、親父は少し変わった。
仕事の話しかしなかったのに、子どもが気になるみたいで「どうしてる?」とか、俺が小さいころ、なにをした、ああだった。という話をするようになった。
「連れまわせるようになったらどこに行く、そこでこんなことさせる。
泥だらけで遊ばせて俺の嫁さんを困らせてやる」楽しそうだった。
予想はしていたがまさかここまでメロメロになるなんて思ってもいなかった。
「○○ー、○○ー」
子どもの名前を呼びながら子どもを抱きかかえてあやしたりしていた。
恥ずかしいのもあるのか呼び方も少しぎこちなかった。
親父は前の年の12月に怪我をした目の手術をした。
6月の俺の弟の結婚式にはサングラスをしなくてもいいように。
まぶたが閉じないので閉じることができるように、
余分な涙が鼻の中へと流れていく管の再生、
陥没した頬骨の整形、
眼球を動かす筋肉を結合するため。
結果はあまり良くなかった。
木の破片がぎざぎざで、筋肉は結合できないみたいだった。
サングラスをしていないと右目だけが見開かれている状態だった。
頬骨にはプレートとビスが入った。
結局その年の6月の弟の結婚式にも親父はサングラスをかけて出席した。
披露宴が終わったあと、親父にならい俺と一番下の弟はサングラスをかけて弟夫婦と写真を撮った。
親父と俺ら3兄弟で写真を撮ったのはこれが最初だったと思う。
そして最後だった。
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