先日、父親が他界した・・・。
末期の肺癌と告知を受けて二年と1ヶ月、正直、今までよくもったほうだと思う。
普段からココを覗いてるせいか、気持ちが落ち着いてきた今、誰かに話したくて仕方ない
かなり長くなると思うけど、ここに書かせてください。
父が癌だと知ったのは平成14年12月
普段から病院嫌いだった父だけど、父の首に出来てたシコリが気になってしょうがない母が、
何とか説得して検査を受けさせたことで判明。
母と姉二人、代わる代わる話しかけてきていたが、携帯越しに聞こえてくる声は涙混じりで錯乱状態・・・
父の病状を聞き終えるのに30分はかかっただろうか?
担当医が息子さんと話をしたいと言ってるらしく、急遽、私が帰省することになった。
ただ、父にはまだ癌の告知をしたくないという母の願いから、
帰省理由は「出張のついでに寄った」ということにしておいた。
私の仕事は自衛官で、沖縄に転勤してきて六年目。
正月にしか帰省しない親不孝息子が、突然帰ってきたら父親が驚くから、と考えだした苦しい言い訳だった。
出張という理由にリアリティーをもたせるために、制服を持参した。
飛行機と電車を乗り継いで4時間、実家では母と姉二人がボロボロな状態で座り込んでた。
ここにきて私も不安が一気に広がったが、家族を励ます間も惜しんで、制服に着替えて病院に向かった。
父に会う前の医師との面談で、余命3ヶ月の末期癌であると告げられる。
MRIの画像を見ながら目の前が真っ白になったのを覚えてる。
「ご本人への告知の判断は、ご家族の方にお任せします。後悔がないようによく話し合ってください。」
医師の事務的な声を聞きながら、ふと隣を見ると母が肩を震わせて咽び泣いてた。
母の肩を抱き寄せながら、何とか励まそうとするが何も思い浮かばず、ただ
「大丈夫・・・大丈夫・・・」と繰り返すばかりだった。
父と病室で会ったとき、私の見舞いに驚きはしたものの、制服姿に反応して「仕事か?」と尋ねてきた。
末期がんという病名と目の前に居る元気な姿の父にギャップを感じ、思わず目頭が熱くなりかけたが、
制服の企みが成功したことで気を持ち直し、ひとしきり世間話をして笑顔で病院を後にする。
そこから、父と家族との長い闘病生活が始まった。
二年近く続いたそれは、天国と地獄の繰り返しだった。
癌を克服した方の本やネットで調べた情報をもとに、
父の治療には出来るだけ放射線での治療を避けることにして、抗がん剤のみを投与してもらい、
医師に頭を下げて病室内でも様々な民間療法を試させていただいた。
柿の葉が良いと聞いて取り寄せ、霊芝が効くと教えてもらい1瓶3万円もする健康食品を買い、
霊験あらたかな神社仏閣にも通い詰め、30万円もの温灸器具を購入し毎晩遅くまで治療などなど・・・
抗がん剤の強い副作用で髪は何度もが抜け、吐き気と眩暈で日々衰弱しながらも治療を諦めなかったのは、
転移する先々で明らかな効果があったからであるが、喜びもつかの間・・・
「また再発」の告知を受けるたびに絶望の淵に立たされたのも事実である。
そして今年の正月。
抗がん剤にも体が耐えられなくなった父は、本人の願いで、医師に無理を聞いてもらい自宅療養に切り替えた。
帰省した私が見た父は、以前の面影が全くないほどの状態だった。
抗がん剤治療の影響で髪は疎らに抜け、肺と心臓の周りに溜まった水で呼吸困難のため酸素吸入機なしでは生きられず、
全身にも水が溜まってパンパンに膨れ上がり、手足は血行不足で紫色になっていた。
横になるのも辛いらしく、一日中ソファーに座って過ごしていた。
なかなか帰ってこれない普段の罪滅ぼしの意味もあって、私は休暇の間ずっと家で看護に当たろうとした。
ところが、用便の度に手を貸そうとする私を、父は頑なに拒否した。
食事の際にも、唇が腫上がって上手く飲み込めない父の口を拭おうとするのだが、
力のない腕で手を払いのけられてしまう。
もともと頑固でプライドの高い父である。
自分の弱いところを息子に見られたくないのであろう・・・
そんな気持ちが解るからこそ悲しくて、思わず泣きそうになるのを必死で堪えていた。
そんな状況で三日間が過ぎた頃・・・
台所で本を読んでたら、父が鈴を鳴らした(←声を出すのも辛い父の為に、普段の会話は鈴を使ってた)
駆け寄って耳を口元に寄せるとボソッと一言、「・・・トイレ」と言った。
私「解った!お袋を呼ん・・・」
言いかけてハッとなった。
父が私の腕を掴んで立ち上がろうとしてるのだ。
「すぐ尿瓶を用意するから・・・」という私の言葉を遮るように、
掴んだ手にグッと力を込めて、足をガタガタ震わせながら父は立ち上がった。
「・・トイレ・・で・・する・・・連れて・・け」
振り絞るように声を出しながら父は歩きだした。
物音を聞いて駆けつけた母を促し、酸素吸入のホースを手繰って延長しながらトイレに向かう。
それをキッカケにして、父は私の看護を受け入れてくれるようになった・・・
一日に三回ほど、血行を良くする為に手足のマッサージを始めた。
限界まで腫れた皮膚は所々破れ、押した指の形が残るほどブヨブヨだったが、
時間をかけて揉んでると僅かに肌の色が良くなっていた。
夜中に痛みで起きだす父が心配で、その日から寝ずの番をした。
姉が面倒を見れる昼間に僅かな睡眠をとった。
皆が私の体のことを心配したが、寝不足なんか何ともない。
私の休暇は残り少ない・・・
その間、父に何かしてあげたい衝動で眠気など起きなかったのだ。
帰省前に担当医と電話で話したこと・・・
母や姉には黙っていたことがあった。
医師「今回の帰宅が最後と考えてください。次に入院された時は・・・」
私 「覚悟してます・・・」
結局、最後の刻までこの会話は私だけの秘密となった。
休暇も終わり、いよいよ沖縄に帰る日がやってきた。
父に見せる最後かも・・・と考えて、持ってきた制服を着て挨拶をした。
父の前に跪き「また顔出すから、頑張って長生きしてな!」と言うと、
父はゆっくりと手を伸ばして、私の左胸につけた防衛記念章(勲章のようなもの)を手の甲で撫ではじめた。
そんな父の姿を黙ってみてると、いきなり自分の足元を指差しだしたので
「ん?どうかしたか?」と、私が頭を下げて確認しようとすると、父の手が私の頭の上に乗せられた。
それからゆっくり・・・ポン・・・ポン・・・と父の大きな手が上下した。
不覚にも涙がこぼれた。
ずっと我慢してたのに・・・なんで今頃・・・
顔も上げれず、鼻をすする私に父は声をかけてくれた。
「が・・・頑・・張れよ・・・立派・・な仕・・事だ」
これが、私と父が交わした最後の会話です。
この日から三日後、父は息を引き取りました。
享年70歳。
三人の子供と五人の孫に囲まれて、幸せに逝ったと思いたい。
ただ一つ心残りなのが、私が未だに独身で、そのことを父がしきりに心配してたということ・・・
これからは、父の分も母に対して親孝行していきたいと思います。
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